東高OB・OGの皆様、こんにちは。
皆さんは、「淡河疎水」「御坂サイフォン」「呑吐(どんと)ダム」を知っていますか?
家でお米を作っている人は聞いたことがあるかもしれませんね。
小学校の社会科見学で行ったことがある人もいるのでは。
「淡河疎水」「御坂サイフォン」「呑吐(どんと)ダム」は、稲美町になくてはならないものなのです。
では、その歴史を紐解いていきましょう。
印南野(いなみの)と言われた東播平野(加古郡、明石市、加古川市あたり)は、その昔水不足と戦ってきた土地でした。畑作中心だったこの土地は、ため池などで水不足を何とかしていましたが、米作への転換のため新たな農業用水が必要となり、山田を流れる山田川(志染川)を灌漑用の水源として期待していました。しかし、その工事の困難さから一旦は見送られ北の淡河川から取水する淡河川疎水計画が持ち上がりました。
「淡河疎水」は、稲美町を中心とした印南野台地に淡河川の水を通す、神戸市北区淡河町の木津川から引かれた疎水で、総延長は26.3kmに及びます。淡河疎水には、28カ所もの隧道があり総延長は5200mにもおよび、工事が難しく、中でも芥子山(けしやま)隧道は土質が崩れやすく湧水が多いため、請負人の手に負えず県の直営工事として進められました。その為、明治21年に着手された工事は、3年4ヶ月を費やして明治24年4月に完成し、明治25年に初めて新田開発を潤しました。疏水で水が行き渡るようになり耕作地域は飛躍的に拡大しました。設計は、内務省技師 田辺義三郎氏と横浜水道の計画・建設者であるイギリス人ヘンリー・S・パーマー氏が担当しました。
次回は、淡河疏水の驚くような技術です。
コメント