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清流会稲美支部 第6回ウォーキング 新聞の父、ジョセフ・ヒコの故地から海沿いの公園へ (播磨町)

稲美支部のウォーキングも6回目となる。
期待通り、平成30年11月23日(祝)は好天に恵まれた。
簡単な打ち合わせの後、稲美町を出発した車は、一路、播磨町役場に向かい、現地集合したグループと合流した。
まず、地図で本日のコースを説明。庁舎前で菊の展覧会があり、季節にふさわしい趣きがある。

最初の目的地は役場近くにある播磨町立図書館。ロビーまで入り、館内を見学。
「図書館で冒険しよう」等、よく考えられた企画案内があり、スタッフのお気持ちが伝わってきた。
次に樹木などがよく整備され、「街」の雰囲気がある道路を西に向かい、喜瀬川を渡る。

喜瀬川

喜瀬川にかかる橋から上流方面を見る

喜瀬川は稲美町の長法池を水源とする約8㎞の2級河川であるが、その長法池には山田川疏水の水が流れ込んでいる。
神戸市西区の山々から流れ出た水がここまで・・・と思い、遥かな旅路?に感慨をもつ人もいたらしい。
さらに西に歩くと、ベーカリーからパンの焼ける匂いがしたり、マニュキュアの店があったりで、同じ加古郡でも稲美町とは違う。何よりも、田んぼがほとんどなく、家々の間にわずかに家庭菜園がある程度。高校の頃、播磨町を自転車で通ったという人は「当時は田んぼもだいぶあったけどなあ」と声をあげる。

やがて、北本庄にある蓮花寺の木々の茂みが見えてきた。新聞の父、ジョセフ・ヒコ建立の〝横文字の墓″があることで有名である。
古い山門をくぐると、境内右にその墓と解説板があった。

ジョセフ・ヒコ

ジョセフ・ヒコが建立した墓の裏面に刻まれた英文

ああ、これか。誰もが裏にまわり、墓石に刻まれた英文や年号を読もうとした。
さすがに明治初年に建立された墓石には風雪が感じられる。

ジョセフ・ヒコ(幼名:彦太郎、のち浜田彦蔵)は、1837年(天保8年)に播磨国加古郡古宮村に生まれた。
幼い頃から、船乗りに憧れ、13歳で江戸に行った帰りに船が難破し、太平洋を漂流。
53日目にアメリカ船に救助され、サンフランシスコへ。同地で起業家にして税関長の秘書となり、洗礼を受け、ジョセフ・ヒコと改名。
さらに、日本人として初めてアメリカ市民権を得る。
1859年(安政6年)、9年ぶりに帰国し、アメリカ領事館の通訳として働く。
しかし、幕末の世相に身の危険を感じて再び渡米。リンカーン大統領と会見する機会に恵まれた。
1862年(文久2年)、再度、故国で働く決意をして帰国。領事館で働きながら、外国の事情を日本に紹介したいと考え、新聞発行の準備をする。
やがて独立し、1864年(元治元年)、日本で初めて新聞(名称は「新聞誌」)を発行。
1870年(明治3年)、郷里訪問時に両親の墓を注文し、翌年、蓮華寺にて除幕式を行う。
1897年(明治30年)、60歳で亡くなり、波乱に満ちた生涯を閉じた。東京・青山の外人墓地に眠る。

蓮華寺

蓮華寺にて記念撮影

記念撮影の後、‶浜国道″(かつての国道250号線)を渡り、阿閇(あえ)神社に向かう。
神社を囲む玉垣には寄進した人の名前が刻まれている。ある一角に「平郡」姓が並んでいる。
「もしかしたら、世界史の平郡先生のご親戚の方々では?」誰かがあげた声に、一同大いにうなずく。
学年は違っても、平郡先生に教えていただいた卒業生が何名かは参加している。
境内に入ると砂が敷き詰めてあり、何とはなしに海が近いように感じられる。
ウォーキング担当者から配布されたコピー「阿閇神社の本殿屋根ふき替え完了」の記事(神戸新聞NEXT 2018.9.10)をあらためて読み直す。

阿閇(あえ)神社

阿閇(あえ)神社の境内にて

社殿は1702年に建造され、「一間社春日造」と呼ばれるめずらしい構造で、県指定文化財になっている。形と大きさが同じ宮が横一列に並び、短い橋でつながる。
真新しい檜皮葺の屋根がすがすがしい。拝む場所は一箇所。思い思いに手を合せたが、何を願ったのだろう。
天井に寄進者名を記した額があり、誰かが「浅原歯科医院がある!」と言った。浅原氏は同じ学年で有名人だったらしい。
宮司さんに「稲美町から来ました」と伝えると喜んでくださり、案内書をいただいた。

ここから、コースは東に向かう。
暮らしの息吹きを感じさせる民家が連なる狭い道路を歩いていると、二階の屋根下に「うだつ」がある家があった。漆喰で固めたこの簡素な装飾は、かつて豊かさの象徴であった。
魚や海苔などを積んだ荷車がこの道を行き交ったのだろうか。
江戸時代、測量をしながら加古川河口に向かう伊能忠敬の一行が通ったのだろうか。

再び、喜瀬川に出会う。満潮が近いのか、この辺りの水量は豊かで、橋の上からは無数の魚が動き回っているのが見える。近くには釣具店の看板もある。

その喜瀬川の西岸を海の方に歩いていると「へぐり渡船」という看板を出した店があり、またしても平郡先生が話題になった。
喜瀬川の河口には思いもよらない風景が広がっていた。新しい緑の芝生の広場で、グラウンドゴルフを楽しむ人がいっぱいいた。
その横の本庄の港には広い駐車場と釣り船の発着場があった。

本庄の港

本庄の港に停泊する釣り船や渡し船

海釣りを楽しむ人はここまで車で来て、予約した舟に乗って沖合の防波堤や播磨灘に出かけるらしい。
「ご近所にこんなところがあるなんて・・・」いくつになっても驚きの連続である。

喜瀬川から別れ、人口島北の交差点から南に向かう。
播磨町総合体育館の前まで来たとき、「子どもが中学か高校の頃、駅伝大会でここに来たなあ」という人がいた。
その横の浜田公園から古宮漁港に向かう際は、海辺の防波堤を利用してつくられた遊歩道を歩く。
この辺りは自家用船の基地になっているらしく、海にいくつもの白いクルーザーが浮かんでいる。

クルーザーの停泊基地

浜田公園海側にあるクルーザーの停泊基地にて

稲美町の緑あふれる田園風景もいいが、播磨町の青い海に人口島が浮かんでいる光景も素晴らしい。
おそらく人口島が完成してから半世紀になるのではないか。この五十年、両町はそれぞれの道を歩んだ。
私たちは稲美町から来て、播磨町の海辺を歩いている。

古宮漁港からは、沖に向かう海を挟んで西側の(播磨町)に川崎重工業、東側(明石市二見町)に三菱重工業神戸造船所の巨大な工場が横たわっている。
この光景をジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が見たら、発行した日本初の新聞にどんな記事を書くだろう。

川崎重工業の工場群

古宮漁港から眺める川崎重工業の工場群

白い鳥たちがエサを探している静かな古宮漁港を後にして、はりまシーサイドドーム (雨の日でも、テニス、フットサル、グランドゴルフ等が実施可能な多目的ドーム)や播磨南高校の前を通り、西北に向かう。
「大池」という名称の池に隣接する広場に「播州加古郡新井(しんゆ)記略石碑」があった。
そこには播磨町の田畑をうるおす新井(しんゆ)用水開削の父、今里傳兵衛を顕彰する大きな石碑が並んでいた。

今里傳兵衛頌徳碑

大池横にある今里傳兵衛頌徳碑

傳兵衛は古宮村の庄屋で、古宮組16ヶ村の大庄屋を兼ねていた。
承応3年(1654年)の大干ばつで危機感をつのらせ、姫路藩主に用水建設を願い出る。
新井は加古川大堰(八幡町中西条)から取水した「五ヶ井」の水をわけてもらい、播磨町古宮大池までの14キロ弱を流れる用水路。西ノ山、日岡山山麓の岩盤を削り、喜瀬川の底に水を通す「埋樋(うずみび)」等の工事をへて、明暦2年(1656年)に開通とある。

稲美町では、小学生の頃から山田川疏水、東播用水という名になじんでいる。播磨町の人々には、それが新井(しんゆ)だったのだ。
1654年という年は、八幡町の庄屋たちが加古大池の建設を姫路藩に願い出た年に近い。
江戸時代初期の人々に思いははせながら、播磨町をあとにした。(高田)

※ジョセフ・ヒコについて詳しく知りたい方は、吉村 昭『アメリカ彦蔵』(新潮文庫 2001年7月)をお読みください。


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